赤塚不二夫死去
赤塚不二夫がとうとう亡くなってしまった。
こういったことがあると、2ちゃんねるを見に行くのが通例だが、スレッドが乱立する状況となっている。
これは、多くの人が死を惜しんでいると言うことの表れと言えばいいのだろう。
「これでいいのだ」はここでは不謹慎だが、残した成果に対しては「これでいいのだ」と言ってあげたい。
合掌。
8月2日21時22分配信 産経新聞
「おそ松くん」「天才バカボン」などで知られる漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名・藤雄=ふじお)さんが2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。72歳だった。旧満州(現中国東北部)出身。自宅は東京都新宿区中落合1の3の15。葬儀・告別式などは未定。
終戦で大陸から引き揚げ、奈良県で育つ。小学生時代に手塚治虫作品に感激し、漫画家を志した。中学を卒業して3年間、新潟市の看板店に勤めた後、1953年に上京。化学工場で働きながら、漫画雑誌への投稿を重ねた。
1956年、「嵐をこえて」でデビュー。東京都豊島区椎名町にあったアパート「トキワ荘」に転居し、石ノ森章太郎や藤子不二雄らと腕を磨いた。34年には“赤塚ギャグ”のはしりとなる「ナマちゃん」が好評に。1962年には「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」が爆発的にヒット。続いて「天才バカボン」「もーれつア太郎」などのヒット作を連発し、“ギャグ漫画の王様”となった。
ニャロメ、ウナギイヌ、レレレのおじさんなどのユニークなキャラクターを生み、「シェー」「ダヨーン」「これでいいのだ」などの流行語も数多く誕生させた。
1997年12月に自宅で吐血して入院、食道がんが判明。その後も急性硬膜下血腫や脳内出血で緊急手術を受け、2002年以降は創作活動を休止していた。
1965年に小学館漫画賞(おそ松くん)、47年に文芸春秋漫画賞(天才バカボンなど)を受賞。1998年に紫綬褒章を受章。2003年には東京都青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」がオープンした。良、新潟で少年時代を過ごした。1956年「嵐をこえて」でデビュー、60年代以降「ひみつのアッコちゃん」「おそ松くん」「天才バカボン」などのヒット作を連発。「シェーッ」「これでいいのだ」など数々の流行語を生み出した。
98年に食道がんの手術を受けたが、その後も療養のための入退院を繰り返しながら週刊誌の連載、絵本の制作など精力的に創作活動を続けた。
2002年4月、検査のための入院中に脳内出血で緊急手術、闘病生活が続いていた。妻真知子さんは献身的な看護をしたが、06年7月くも膜下出血のため急死した。
こういったことがあると、2ちゃんねるを見に行くのが通例だが、スレッドが乱立する状況となっている。
これは、多くの人が死を惜しんでいると言うことの表れと言えばいいのだろう。
「これでいいのだ」はここでは不謹慎だが、残した成果に対しては「これでいいのだ」と言ってあげたい。
合掌。
漫画家の赤塚不二夫氏死去 「おそ松くん」「天才バカボン」
8月2日21時22分配信 産経新聞
「おそ松くん」「天才バカボン」などで知られる漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名・藤雄=ふじお)さんが2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。72歳だった。旧満州(現中国東北部)出身。自宅は東京都新宿区中落合1の3の15。葬儀・告別式などは未定。
終戦で大陸から引き揚げ、奈良県で育つ。小学生時代に手塚治虫作品に感激し、漫画家を志した。中学を卒業して3年間、新潟市の看板店に勤めた後、1953年に上京。化学工場で働きながら、漫画雑誌への投稿を重ねた。
1956年、「嵐をこえて」でデビュー。東京都豊島区椎名町にあったアパート「トキワ荘」に転居し、石ノ森章太郎や藤子不二雄らと腕を磨いた。34年には“赤塚ギャグ”のはしりとなる「ナマちゃん」が好評に。1962年には「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」が爆発的にヒット。続いて「天才バカボン」「もーれつア太郎」などのヒット作を連発し、“ギャグ漫画の王様”となった。
ニャロメ、ウナギイヌ、レレレのおじさんなどのユニークなキャラクターを生み、「シェー」「ダヨーン」「これでいいのだ」などの流行語も数多く誕生させた。
1997年12月に自宅で吐血して入院、食道がんが判明。その後も急性硬膜下血腫や脳内出血で緊急手術を受け、2002年以降は創作活動を休止していた。
1965年に小学館漫画賞(おそ松くん)、47年に文芸春秋漫画賞(天才バカボンなど)を受賞。1998年に紫綬褒章を受章。2003年には東京都青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」がオープンした。良、新潟で少年時代を過ごした。1956年「嵐をこえて」でデビュー、60年代以降「ひみつのアッコちゃん」「おそ松くん」「天才バカボン」などのヒット作を連発。「シェーッ」「これでいいのだ」など数々の流行語を生み出した。
98年に食道がんの手術を受けたが、その後も療養のための入退院を繰り返しながら週刊誌の連載、絵本の制作など精力的に創作活動を続けた。
2002年4月、検査のための入院中に脳内出血で緊急手術、闘病生活が続いていた。妻真知子さんは献身的な看護をしたが、06年7月くも膜下出血のため急死した。
- 関連記事
スポンサーサイト