日経コラム「インターネットと「私刑」化する社会」について
日曜日に、横浜ベイスターズの波留コーチが飲酒運転(または飲酒運転幇助)したと読めそうなブログ書き込みがあって、2時間もしないうちに2ちゃんねるにさらされ、翌日には公式ブログそのものが閉鎖されてしまったということがあった。
確かに書き込み内容を見たとき、正直なところ「やべー」と思ってしまった。
知る限りでも、最近のミス東大が差別書き込みをして炎上とか、○○電機の新入社員が彼女の全裸写真を掲示板にさらした上に彼女の名前まで出してしまったとか、ソープ嬢が所属店のブログに「性病」にあたる病気にかかったことを書き込んでしまって退店に至った、などなど些細なミスで災難が及ぶ例は枚挙に富まない。
ここでの「彼女」には同情するしかありませんけどね。
でも「私刑」する裏側には、コラム筆者の藤代氏が言うとおり
リスク回避をしたいために管理や相互監視が強まり、誰もが「正義の側」につきたがる
訳で、大企業や巨大宗教団体とか大政党とかの致命的な批判を堂々とする人はいない、いても日陰者の扱いをされる、というのが普通だ。しかし、オウム真理教とかNOVAとかグッドウィルとかイラクのフセイン政権とか…のアウトになったところになると、堂々と「私刑」をするのが正義だから匿名メディアを使わなくて済んでしまうということでしかないんだと思う。
「貧者の核が生物兵器」というのと同じことが、「弱者の核がネット書き込み」と言えるんだよね。
インターネットと「私刑」化する社会
ブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)といった個人が情報発信するメディアはすっかり定着し、それらの動きを伝える「ミドルメディア」も存在感を増している。一方で、ネット上では「ブログ限界論」が語られ、マスメディアや政・官からはネットへの規制強化を求める動きが目立ち始めている。ネットの影響力が高まるにつれてそのマイナス面もクローズアップされてきた。私が心配するのは、ブログ炎上を始めとする「私刑」が拡大する社会になってはいないだろうかという点だ。
■炎上がもたらすネットの萎縮効果
Web2.0という言葉の輝きは失われつつあるように見える。確かに、UGC(User Generated Content)やCGM(Consumer Generated Media)と呼ばれる、個人が生み出すコンテンツを巡るプラットフォーム戦争はグーグルやアマゾン、日本国内はミクシィで、ほぼ勝負は決したが、これらのプラットフォームの上に、多様なメディアが花開いている。
ブログやSNSはもちろん、以前のコラム「『炎上』の発火源?・マスコミとブログつなぐ新メディアの台頭」や「ネットが『スクープ』を生む時代に既存メディアが行く道は?」で明らかにしたように、ミドルメディアの存在感は増している。 UGC・CGM発のコンテンツは膨大な量になり、ネット上の出来事がミドルメディアを経由してマスメディアに取り上げられるようになっている。これは、基本的に良い方向だろう。マスメディアによる限られた視点だけでなく、多様な議論を生み出す可能性があるからだ。
しかしながら、「炎上」のような現象はその可能性を奪う可能性がある。
炎上という言葉は、2004-2005年にかけて2件連続してマスメディア関係者のブログにコメントが殺到、閉鎖・更新停止に追い込まれたことをきっかけに広がった。その後、この現象は政治家、芸能人から一般人に広がっている。昨年も、動画共有サイトに投稿された、吉野家の店員が豚丼を山盛りにした「テラ豚丼騒動」に続き、ケンタッキー、バーミヤンなどでも同様の事件が続いた。キセル未遂の大学生、当て逃げした自動車の犯人追及、さらに炎上情報を共有するサイトが炎上するという笑えない事態も起きている。
炎上の原因は「問題発言」や「問題行動」そのものにあるとされるが、中には「何が問題なのだろう」と首をかしげてしまうものもある。ネット上の議論は一度火がつくと冷静な視点が失われがちだ。義憤に駆られ、正義を主張する無数の人々が協力して個人情報を暴き、自宅写真をネット上に公開し、通学する学校や勤務先に、場合によっては警察に電話する。関係機関に「処分はしないのですか?」と問い合わせたり、その対応・やり取りの電話やメールを公開したりする。このような圧力に晒されれば、判断を停止して「とりあえず謝っておこう」「処分しておこう」というその場しのぎの対処に至る企業や組織が出るのも不思議ではない。萎縮効果は抜群だ。
■マスメディアからネットメディアへ移る「私刑」
このような「私刑」は、つい最近まではマスメディアの専売特許だった。マスメディアは人々の代弁者という立場から「正義」を振りかざし、罪が司法によって確定する前に社会的な制裁を行ってきた。そして、このような報道のあり方は上滑りであり、本質に切り込んでいないと批判されてきた。
私がよく例に出すのが、鈴木宗男議員の事件だ。鈴木氏は「国策捜査」によって東京地検特捜部に逮捕されたがその罪状はあっせん収賄罪などで、当時マスメディアが盛んに報道した「ムネオハウス」ではない。背任などの罪に問われた外務省元主任分析官の佐藤優氏は、怒った映像ほしさに故意にテレビカメラの角で殴られたこともあるとして、逮捕されたときには「これでこのメディアスクラムから逃れられると実はほっとした」と明かしている(【佐藤優の眼光紙背】第7回:メディアスクラムとインテリジェンス戦争)。
「メディアの監視」はそれほどまでに過酷なものだ。実際、裁判においても量刑理由で「マスメディアの報道によって社会的な制裁を受けている」と付け加えられる場合もある。マスメディアは事件の構図、本質を明らかにするのではなく、警察・検察と共に犯人探しをして私刑を執行してきた。
個人がメディアを持ったことによって、誰もが「私刑」を実行できるようになった。「炎上」「祭り」はポータルサイトのニューストピックス、さらには新聞・雑誌などにも表出している。ブログやSNSから「炎上」事例を探し出し拡大させているミドルメディアだけでなく、既存のマスメディアがウェブ上の言論に注目するようになったことも影響している。騒動を大きく取り上げるマスコミは、以前にも増して脊髄反射的な記事が増え、ネットとマスメディアの共振が「私刑化する社会」を拡大させているのではないだろうか。
これは、報道される側からすれば「恐怖」だ。毎日新聞社の「ネット君臨」、NHKの「ネットの祭りが暴走する」などの特集はその恐怖の裏返しであり、その恐怖は学校裏サイトなどネットのマイナス部分へのフォーカスに向かい、携帯サイトのフィルタリングや規制への議論の引き金になっている。
とはいえ、ウェブの言論を批判しているマスメディア自身がたびたびメディアスクラム、プライバシー侵害を引き起こしている。つい最近も、四国であった殺人事件で家族をまるで犯人かのように報道したり、コメントしたキャスターがいたりと改善が見られない。ネットユーザーによる私刑もマスメディアの報道もどちらも本質的に変わらない。
■これが望んだウェブ社会なのか
ブログやSNSによって誰もが自由に発言できたはずが、どことなく自由が失われつつある。このような状況をコピーライターの糸井重里氏は、「人ごみの中でおならをした人が、『誰か屁をしたな!』って、でかい声を出す。それをやられちゃうと、『ぼくはしてないですよ』、あるいは『お前じゃないか?』という発言しか、周りは言えなくなっちゃう。それぞれが『あいつは悪い』って告げ口しあうことで、自分だけが生き延びようとしたんです。『俺は悪くない』と言うとその時点ですでに犯人扱いになっちゃう。ましてや、『え、あいつって本当に悪いのかい?』なんて言ったら、もうその人はおしまいなんです。」(日経ビジネスオンライン「公私混同」言論、「『屁尾下郎』氏のツッコミが世の中を詰まらせる」から抜粋)と話し、リスク回避をしたいために管理や相互監視が強まり、誰もが「正義の側」につきたがると分析している。
センセーショナルで、刺激を求めるのも人の一面なのだと言ってしまえばそれまでだ。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたがウェブ炎上に火消しはいない。ネットとマスメディアが共振しているなら逃げ場もない。誰もがメディアを持ってしまった以上、あらゆる正義がぶつかり合う。「私刑」はなくならないだろうが、これが人々が望んだ「ウェブ社会」なのだろうか。
http://it.nikkei.co.jp/internet/column/gatoh.aspx?n=MMIT11000018012008
確かに書き込み内容を見たとき、正直なところ「やべー」と思ってしまった。
知る限りでも、最近のミス東大が差別書き込みをして炎上とか、○○電機の新入社員が彼女の全裸写真を掲示板にさらした上に彼女の名前まで出してしまったとか、ソープ嬢が所属店のブログに「性病」にあたる病気にかかったことを書き込んでしまって退店に至った、などなど些細なミスで災難が及ぶ例は枚挙に富まない。
ここでの「彼女」には同情するしかありませんけどね。
でも「私刑」する裏側には、コラム筆者の藤代氏が言うとおり
リスク回避をしたいために管理や相互監視が強まり、誰もが「正義の側」につきたがる
訳で、大企業や巨大宗教団体とか大政党とかの致命的な批判を堂々とする人はいない、いても日陰者の扱いをされる、というのが普通だ。しかし、オウム真理教とかNOVAとかグッドウィルとかイラクのフセイン政権とか…のアウトになったところになると、堂々と「私刑」をするのが正義だから匿名メディアを使わなくて済んでしまうということでしかないんだと思う。
「貧者の核が生物兵器」というのと同じことが、「弱者の核がネット書き込み」と言えるんだよね。
インターネットと「私刑」化する社会
ブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)といった個人が情報発信するメディアはすっかり定着し、それらの動きを伝える「ミドルメディア」も存在感を増している。一方で、ネット上では「ブログ限界論」が語られ、マスメディアや政・官からはネットへの規制強化を求める動きが目立ち始めている。ネットの影響力が高まるにつれてそのマイナス面もクローズアップされてきた。私が心配するのは、ブログ炎上を始めとする「私刑」が拡大する社会になってはいないだろうかという点だ。
■炎上がもたらすネットの萎縮効果
Web2.0という言葉の輝きは失われつつあるように見える。確かに、UGC(User Generated Content)やCGM(Consumer Generated Media)と呼ばれる、個人が生み出すコンテンツを巡るプラットフォーム戦争はグーグルやアマゾン、日本国内はミクシィで、ほぼ勝負は決したが、これらのプラットフォームの上に、多様なメディアが花開いている。
ブログやSNSはもちろん、以前のコラム「『炎上』の発火源?・マスコミとブログつなぐ新メディアの台頭」や「ネットが『スクープ』を生む時代に既存メディアが行く道は?」で明らかにしたように、ミドルメディアの存在感は増している。 UGC・CGM発のコンテンツは膨大な量になり、ネット上の出来事がミドルメディアを経由してマスメディアに取り上げられるようになっている。これは、基本的に良い方向だろう。マスメディアによる限られた視点だけでなく、多様な議論を生み出す可能性があるからだ。
しかしながら、「炎上」のような現象はその可能性を奪う可能性がある。
炎上という言葉は、2004-2005年にかけて2件連続してマスメディア関係者のブログにコメントが殺到、閉鎖・更新停止に追い込まれたことをきっかけに広がった。その後、この現象は政治家、芸能人から一般人に広がっている。昨年も、動画共有サイトに投稿された、吉野家の店員が豚丼を山盛りにした「テラ豚丼騒動」に続き、ケンタッキー、バーミヤンなどでも同様の事件が続いた。キセル未遂の大学生、当て逃げした自動車の犯人追及、さらに炎上情報を共有するサイトが炎上するという笑えない事態も起きている。
炎上の原因は「問題発言」や「問題行動」そのものにあるとされるが、中には「何が問題なのだろう」と首をかしげてしまうものもある。ネット上の議論は一度火がつくと冷静な視点が失われがちだ。義憤に駆られ、正義を主張する無数の人々が協力して個人情報を暴き、自宅写真をネット上に公開し、通学する学校や勤務先に、場合によっては警察に電話する。関係機関に「処分はしないのですか?」と問い合わせたり、その対応・やり取りの電話やメールを公開したりする。このような圧力に晒されれば、判断を停止して「とりあえず謝っておこう」「処分しておこう」というその場しのぎの対処に至る企業や組織が出るのも不思議ではない。萎縮効果は抜群だ。
■マスメディアからネットメディアへ移る「私刑」
このような「私刑」は、つい最近まではマスメディアの専売特許だった。マスメディアは人々の代弁者という立場から「正義」を振りかざし、罪が司法によって確定する前に社会的な制裁を行ってきた。そして、このような報道のあり方は上滑りであり、本質に切り込んでいないと批判されてきた。
私がよく例に出すのが、鈴木宗男議員の事件だ。鈴木氏は「国策捜査」によって東京地検特捜部に逮捕されたがその罪状はあっせん収賄罪などで、当時マスメディアが盛んに報道した「ムネオハウス」ではない。背任などの罪に問われた外務省元主任分析官の佐藤優氏は、怒った映像ほしさに故意にテレビカメラの角で殴られたこともあるとして、逮捕されたときには「これでこのメディアスクラムから逃れられると実はほっとした」と明かしている(【佐藤優の眼光紙背】第7回:メディアスクラムとインテリジェンス戦争)。
「メディアの監視」はそれほどまでに過酷なものだ。実際、裁判においても量刑理由で「マスメディアの報道によって社会的な制裁を受けている」と付け加えられる場合もある。マスメディアは事件の構図、本質を明らかにするのではなく、警察・検察と共に犯人探しをして私刑を執行してきた。
個人がメディアを持ったことによって、誰もが「私刑」を実行できるようになった。「炎上」「祭り」はポータルサイトのニューストピックス、さらには新聞・雑誌などにも表出している。ブログやSNSから「炎上」事例を探し出し拡大させているミドルメディアだけでなく、既存のマスメディアがウェブ上の言論に注目するようになったことも影響している。騒動を大きく取り上げるマスコミは、以前にも増して脊髄反射的な記事が増え、ネットとマスメディアの共振が「私刑化する社会」を拡大させているのではないだろうか。
これは、報道される側からすれば「恐怖」だ。毎日新聞社の「ネット君臨」、NHKの「ネットの祭りが暴走する」などの特集はその恐怖の裏返しであり、その恐怖は学校裏サイトなどネットのマイナス部分へのフォーカスに向かい、携帯サイトのフィルタリングや規制への議論の引き金になっている。
とはいえ、ウェブの言論を批判しているマスメディア自身がたびたびメディアスクラム、プライバシー侵害を引き起こしている。つい最近も、四国であった殺人事件で家族をまるで犯人かのように報道したり、コメントしたキャスターがいたりと改善が見られない。ネットユーザーによる私刑もマスメディアの報道もどちらも本質的に変わらない。
■これが望んだウェブ社会なのか
ブログやSNSによって誰もが自由に発言できたはずが、どことなく自由が失われつつある。このような状況をコピーライターの糸井重里氏は、「人ごみの中でおならをした人が、『誰か屁をしたな!』って、でかい声を出す。それをやられちゃうと、『ぼくはしてないですよ』、あるいは『お前じゃないか?』という発言しか、周りは言えなくなっちゃう。それぞれが『あいつは悪い』って告げ口しあうことで、自分だけが生き延びようとしたんです。『俺は悪くない』と言うとその時点ですでに犯人扱いになっちゃう。ましてや、『え、あいつって本当に悪いのかい?』なんて言ったら、もうその人はおしまいなんです。」(日経ビジネスオンライン「公私混同」言論、「『屁尾下郎』氏のツッコミが世の中を詰まらせる」から抜粋)と話し、リスク回避をしたいために管理や相互監視が強まり、誰もが「正義の側」につきたがると分析している。
センセーショナルで、刺激を求めるのも人の一面なのだと言ってしまえばそれまでだ。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたがウェブ炎上に火消しはいない。ネットとマスメディアが共振しているなら逃げ場もない。誰もがメディアを持ってしまった以上、あらゆる正義がぶつかり合う。「私刑」はなくならないだろうが、これが人々が望んだ「ウェブ社会」なのだろうか。
http://it.nikkei.co.jp/internet/column/gatoh.aspx?n=MMIT11000018012008
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